2018年3月10日土曜日

3・11 実家は被災地にあるのです

今日のパリ3月11日
2011年3月11日東日本大震災から、もう7年も経つのですね。

カスタマイズできるパリ旅


パリでは東日本大震災と福島原発事故への追悼集会が行われます。

昨年大統領選挙で、
脱原発を掲げたジャン=リュック・メランションさんがスピーチ予定。
東日本大震災と言うより、むしろ脱原発の色が濃い集会になりそうですね。

と言うことで、私は東日本大震災について小話。

私の実家はバリバリ被災地にあります。
目の前には海、そして背には山がある海と山に囲まれた美しい(ド)田舎町です。
トップの画像は実家のすぐそば。
そんじょそこらの絶景の町に負けず劣らずとても美しい町です。


2011年3月は実家に久々に帰りプチヴァカンスで2週間くらい滞在しておりました。
実家ではセレブ妻のようにふわふわと過ごし、
午後3時前後は決まってジョギングを兼ねて犬の散歩へ出るのが日課に。

確か2011年3月9日だったと思います。
その日も14時30分くらいから犬の散歩へ出発。
ド田舎でチャラチャラとイヤホンをしながら海辺を犬の散歩をするような
都会の風(笑)を吹かせている人なんて誰もいない静かな海辺。

私は爆音でイヤホンからながれる音楽を聴きながら、
少しダッシュ気味に走っておりました。
すると、携帯が鳴り、
友人「ちょっとー今、凄い地震だったけど、大丈夫?」

私「え?!地震だったの?」

このときは震度4だった記憶です。
震度4だとイヤホンで耳が塞がれ、ダッシュしていると
地震を感じないものなんですね。

そして、翌日の3月10日は東京に戻る予定をしていたので、
予定通り(15時ころ)母親の車で最寄の新幹線の駅まで送ってもらい、
またね~♪とちょっとセンチメンタルに実家を後にしました。

翌日3月11日15時頃 東日本大震災が発生しました。

私の実家での15時はイヤホンを聞きながら決まって海辺をジョギングする時間。
もし私が前日に実家を出発していなければ、
確実にこのブログを書いている私はいないと思います。

3月10日に実家を出発しようと日程を立てたのは母親。
彼女はとっても運がいいことで我が家では有名。母親に感謝。
私が気づかなかった9日の震度4はきっと余震だったのですね。

私は3月11日は東京の弟の家に滞在しておりました。
ものすごい揺れの後は、随分と長い時間停電しました。
弟は職場から数時間かけて歩いて帰宅。
弟が帰宅途中に家から少し離れたところは電気が通っているのが見えたということで、
移動してみました。
開いているお店に兄弟2人で入って電源を確保して弟のPCでニュースを。

。。。。。。。


実家あたりの様子が映し出されておりました。


。。。。。。。


津波に飲まれている我が家近辺。

そして思いっきり母親の職場近くの映像が流れ、母親の職場は水の中へぷかぷか。


兄弟2人で、お母さんは死んだ、と思いました。


そして、父親の職場付近も被害がひどいとニュースでレポート。


兄弟2人で、お父さんはなんとなく大丈夫かな、と思いました。


もちろんのこと、電話は通じません。
同じ県の内陸側に住んでいた伯父とも連絡が取れません。

。。。。。。。

翌日3月12日。
弟は友人と連絡を取り合って、数人で実家方面へ行くことに決定。
道路も流されてないのに、どうやっていくんだ。

地震の2日後。3月13日に弟は友人数人と連れ立って違う県から遠回りして、
さらに地元の感で通れる道、通れる道を辿って実家の県へ入りました。
地元っこのなせる業。ブラボー。


さて、両親と実家は。


幸い高台にあった我が家は全くの無事でございました。
どういう揺れだったのか、家の物もそう壊れていなかったということです。
両親は、、、
二人とも無事でございました。

母親は逃げ出したのが職場で一番最後。
みんなが行った方向へ逃げようとしたら、
ひとりのおじさんが「あっちは波がくるから、こっちへ逃げろ!!」と
別の方向へ逃げ、命拾いをしました。
やっぱり母親は運がいいのです。

父親は、避難所へ逃げる途中に、ピチャピチャと水の音がしたそうです。
すぐふりかえると、マンホールがから水が噴き出し、
腰まで水につかりましたが無事避難所まで辿りついたとのこと。


別々の避難所へ逃げましたが実家へそれぞれ歩いて戻ったそうです。
先に父親が実家へ辿りつき、ひとり残されて震えていた犬を抱きしめて、
母親がいなかったので、
「お母さんは死んだなぁ、これから2人で生きていこうな」と心に思ったそうです。
家族全員にきっと死んだと思われる母親って。。。
彼女の性格上、いつも最後まで何かしているので絶対逃げ遅れていると思いました。

父親に遅れること1日、母親がドアを開け帰ってきたそうです。
2人で抱き合ったと話しておりました。

高台に唯一残された高速道路を歩いて帰宅したそうです。

その後、水もない電気もない電話もない状態がしばらく続いたそうです。
近所の湧き水で水を汲んできていたそう。
3月はまだまだ寒い地方です。ガソリンスタンドには灯油を求める列が24時間。
混乱する現状に東日本大震災後すぐ救助に来てくれた自衛隊に
地元の人々はとても感謝しておりました。


家が全壊した家族、旦那さんが見つからないと語る母親の友人、
旦那と息子が帰ってこないと思ったら、家の下敷きになっていたという近所の人、
そして、昔からこの辺には家を建てるな、と言い伝えがあった場所に
便宜上建てていた家は次々と破壊されたそうです。
幸い我が家は家族も犬も無事で犬はどうしても散歩しなければならないので、
犬の散歩をしていた父親は「犬の散歩なんてして気楽なもんだな」と
被害が大きかった近所の人に声をかけられたりしたそうです。
津波は人々の心の平静までも流してしまいました。
さらに、津波の実被害だけでなく残された家族や被害処理に追われていた
役所の人の自殺といった2次被害の多さにも動揺しました。

メディアは語られない被害者自身でなければ知らないエピソードが7年経った今でも
まだまだまだまだまだまだあります。


私がパリから実家へ戻ったのは2013年。東日本大震災から2年後のことでした。
助に行かず薄情ですね。
2013年の時点では実家の傍にはたくさん瓦礫の山が残っておりました。
さらに2年経った2015年に帰ったら、びっくりで
新しい家が続々と建築され、新しいニュータウンが出来ておりました。

様々なことを思い出しながら3月11日を迎えます。
À demain 
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